2018年06月01日 19:35
http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1524481841/
今まで生きてきて凄く衝撃的だった体験 その22
- 293 :名無しさん@おーぷん : 2018/05/31(木)20:27:00 ID:fKV
- 小学校でおじいちゃんおばあちゃんの戦時中の体験を聞き取りして
レポートにしてまとめる宿題が出たので
福岡から熊本の寺に集団疎開してきたモヤシの祖父が
同級生のいじめっ子共にリンチされてるところを
寺の長女である祖母が洗濯竿を薙刀にしていじめっ子達を叩きのめしてくれた
それが縁で終戦後も福岡~熊本間で文通を続け
祖父が婿養子の形で祖母と結婚した。
|
|
- 一般家庭で育った祖父にとって総本山の厳しい修行はとても辛いものだったそうだが
祖母との結婚の為に耐え抜いた。
疎開から帰った直後から柔道を始めて黒帯レベルまで鍛えていたのでモヤシではなかったし。
で還暦近い祖父母は今でもラブラブです。
疎開が結んだ縁ですと書いてしまい担任に呼び出された。
不謹慎なこと書いたから呼び出されるのかなと思ったら清書してコンクールに出さないかとさ。
勿論断ったよ、祖父母のプライベートだし。 - 294 :名無しさん@おーぷん : 2018/05/31(木)20:35:29 ID:fKV
- 担任の実家(旅館)が戦時中夫や男性従業員が出征してしまって
人手も金もない中で都会からの学童疎開を受け入れて
自分達が畑で自作している野菜まで学童に分けていたのに
東京で御馳走を食べなれていた児童達には不満だったらしく
終戦後「酷い旅館だった。芋の蔓を食べさせられた。
田舎だから食糧はあるはずなのに出し惜しみしたんだ」と言われていたらしい。
祖父母からそのことを言って聞かされて育った担任は集団疎開と言えば
「都会の子供が粗野な村人に搾取されていじめられる」話ばかりが流布されることが
気に食わず美談を広めたかったらしい。
戦後60年近く立ってるのにまだ禍根を引き摺ってる人がいるんだな~と
小学生ながら衝撃を受けた。 - 295 :名無しさん@おーぷん : 2018/05/31(木)20:35:40 ID:F4p
- >>293
おれ、この戦争が終わったら、あの寺の子と結婚するんだ。 - 296 :名無しさん@おーぷん : 2018/05/31(木)20:39:00 ID:fKV
- >>295
祖父は祖母と会っていなかったら
幼少時から患っていた喘息とイジメのコンボで自殺していたかもしれないと言ってましたね。
お寺の子は男女問わず武道を習わせられますから腕っぷしが強い人多いですよ
私も兄も柔道と剣道の有段者です。 - 297 :名無しさん@おーぷん : 2018/05/31(木)23:42:29 ID:wLq
- >>293
担任の思惑は別として純粋にいい話だな
じいちゃんばあちゃんは自分たちのエピソードを書いた
かわいい孫の作文が評価されたってのは嬉しかっただろう
|
コメント
クソ教師の話が多過ぎて、嫌な想像したけど
全然違ったw
捕虜に納豆出したら虐待で訴えられたって話思い出した
>>還暦近い祖父母は今でもラブラブです。
って祖父母が戦時中に小学生だったなら今80歳超えてると思うんだけど
作り話なのか還暦の意味も分からず使ってるのかどっちちよ?
寺の子が男女問わず武道とか聴いたことねーよ
茶道華道も聴いたことない
イジメッ子たちを返り討ちにしたばあちゃんもすごいし、努力してばあちゃんに相応しい男になったじいちゃんかっこいい
※2
牛蒡出したら木の根食わされたで訴えられたのも知ってる
シベリアで捕虜が凍った芋出されて酷いと思ったらソ連兵も凍った芋食ってたのも知ってる
※3
報告者が小学生の時に「還暦近い祖父母」がって作文に書いたんだぞ?わかるか?
※3
報告者が小学生当時、祖父母は還暦間近だったってことだよ。
だから今から20年くらい昔の話じゃないかな。
>東京で御馳走を食べなれていた児童達には不満だったらしく
終戦後「酷い旅館だった。芋の蔓を食べさせられた。
田舎だから食糧はあるはずなのに出し惜しみしたんだ」と言われていたらしい。
70年前から被災者様がいたんだな。
虫唾が走る
※4
私、お寺の子だけれど全く縁がないw>武道・茶華道
何人か知人にお寺の子がいるけれど、書道をやっている・やっていた子が多めってくらいかな
自分もきょうだいも書道を習っていて、段位を持っていた
近頃はさっぱりだけれどw
※3
勘違い、ドンマイ
教師のも別に禍根とか気に食わないとかでなく(共感はあるだろうが)
世に知られてるもの一辺倒でなく
レアケースも紹介したいくらいの思惑だったんでないかと思うけどなあ
※12
それぐらいだろうね
祖父母の了解が得られたのなら、出してもいいんじゃないかと思ってしまう。いい話だから
戦後の食糧難の時に田舎に買い出しに行ったら、コメと引き換えに着物や掛け軸を巻き上げられた
って都会の人は言うけど、田舎だって食料が有り余ってたわけじゃない
高価とはいえ食べられない着物や掛け軸と引き換えになけなしの食料を分け与えたのに
っていう書き込みは見たことある
習い事なら書道が多そう>お寺
卒塔婆やら書き物が多いから、字がキレイでないといけないから
(今は卒塔婆プリンターとかあるけど)
だから国語の先生で実家がお寺って人割と居た
自分も夏休みに「祖父母に会うなら聞いてきて」と社会科教師から緩い宿題として出されたので聞いてきたら、どちらの祖父も出征してなくて、割と地味な話しか聞けなかったんだが、母方祖父の方の話はけっこうレアだったらしく、逆に先生の食いつきがよかった思い出。「家業でお国に尽くせ」と命令されたとかで、軍に言われてアレコレ作ってたらしい。
※4
ここの地域の寺の子は皆そういうの習う風習なのかもしれないよ
自分の知ってることが世界の全てでは無いんだからさ
うち35歳だけど子どもの頃芋のツル食べたことある。
すごく美味しくてモリモリ食べたけどなあ。
被災者様だけじゃなく実際にひどい目にあった人もいるからなあ。
どっちが正しいじゃなく、どっちも有った、というだけだが。
親切な田舎の人もいれば、卑劣な田舎の人もいる。
謙虚な都会の人もいれば、田舎を馬鹿にする都会の人もいる。
善人も悪人も両方いるが、普通の人もいる。ただそれだけ。
一例を挙げれば作家の筒井康隆は子供の頃実際にいわれなくひどい目にあったので「農民」が悪役の小説とか書きまくって憂さを晴らしてた。
一方、野坂昭如は疎開時非常にわがままな子供で、そのわがままさゆえに妹が亡くなった。その贖罪で書いたのが火垂るの墓。
寺生まれの子が武芸を習ってたらTさんみたいになれたのか…
※18
うちの辺りは今でも食べるよ
芋殻(いもがら)って呼んでる
皮剥いて干しながら毎朝揉んでって結構手間かかる
味も癖もないかんぴょうみたいな感じで煮物によく馴染む
繊維質が豊富で産後の肥立ちに良いとされてきたとか
寺生まれのT先輩は強いが
俺の同級生の寺生まれのW君は
クリスマスを祝ったりしてもう色々ガッカリだった
お前のあげるお経には何の価値もないわ!
芋がら煮ると美味しいよ。
すぐにふにゃるから火の通し加減気を付ける。
けっこう独特の味があるよ。
母方祖父が父方祖父の家に疎開していた縁で父と母が結婚した
戦争がなければ自分は生まれてなかった
寺云々なくても当時なら武道習ってたろ
>東京で御馳走を食べなれていた児童達
はいうそー
どこの軍人の子だよ
暮しの手帖社の戦争中の暮しの記録なんかを読むと様々な経験談が載っていて興味深い。
田舎は田舎で都会の連中に自分達が食べる分まで巻き上げられそうになったって話あるしな
戦後60年なのに、つーのは心無い考え方だと思う
時間がたったからこそ悪評を払拭したい、て考えるのも人情だからな
けど先生も都会っ子の風評被害に釈然としてなくても
それは生徒から美談を漁って上書きするんじゃなく
自分で地元の老人たちに地道な聞き取りしたりして
「当時の田舎の生の声」を郷土史として残すとか
そういう方向に頑張るべきだったと思う
武道を必ず習わされるとは、どこの宗派なんだろうか
(芋の蔓と芋がらは別物だと思うんだ…前者はさつまいもの蔓で後者はサトイモ(の類)の茎のとこ
お爺さんおばあさんのお話は素敵だし、担任の話も悪くないと思う
けどこのスレ主が糞だわ、何様だよ
プライベートだからもちろん断った(ドヤってるけど
戦争体験をみんなプライベートですから!にしたら後世に何にも伝わらないじゃん
祖父母が内緒にしたい話だからというなら、それでいいけど
ってか、今ここで盛大に発信してるけどな。
芋の蔓、今でも食べますぜ
結構好き
※28
あれは良書だよね。
多分祖母が買ったんだと思うけど、実家にあってよく読んだわ。
※27
都会の子の口に入っていたのは流通させられる品質の物で、
生産者が口にするのは規格外品が多いんだよ
なーんて書いても、自分へのレスチェックするほどヒマ人じゃないか
※3が責められてるけど、主の書き方が悪いだろ。
小学生の頃の話しなのにいま
途中で送信しちった。
還暦の今でもラブラブなんて書いたら勘違いするよ。
過去の話しなら、今でもじゃなくて還暦だった当時もラブラブとかのほうが良かったと思うよ。
つーか今も昔も都会が田舎をバカにするのは変わらないんだから
都会者が田舎に逃げて来て不愉快な思いすくらい我慢しなさいよ
平時には田舎者の方がバカにされて不愉快な思いしてるんだから
嫌なら疎開するな
いまだにボットンが現役で、側溝に生活下水垂れ流しの地域ですがなにか?
けど川には蛍が飛んでます
蛍生活下水に意外と強い
みんな、なぜ恐怖して苦しんで死ななければならなかったのか。
はらみ女に聞いてみてくれ。 全死霊さんたち、存在すらせず、恐怖する必要も絶望する必要も苦しむ必要もなかったはずなのに、なぜそのようにされなければならなかったのか、母親に聞いてみてほしい。
許されることじゃないような気がする。
※42
スピリチュアルだか宗教だかオカルトだか知らんけどよそでやれ
※43
お医者さんだろ
※39
>で還暦近い祖父母は今でもラブラブです。
疎開が結んだ縁ですと書いてしまい担任に呼び出された。
このくだりもう一度読んでみて?
それでもいつの時点での話かわからないかな?
もしわからないならもう一度あらためてやさしい本からくりかえし読んでみてね
えほんもいいとおもうよ
東京には食べ物がなくて、田舎には食べ物があった時代なんだよ
知らないのかな???
コンクールには出さないけど全世界には発信するの?
※27
この場合の「ご馳走」は贅沢三昧の豪華な食事って意味ではないことが理解できる程度の読解力は持ってた方がいいと思うよ
※27
地域にもよるけど、裕福じゃない農家は戦後になっても正月くらいしか白米が食べられなかったんだよ(その白米に合わせる尾頭付きの魚も鯛じゃなくて目刺し)
田舎の子からしたら、江戸時代から毎日白米食べてた都会の子(脚気の別名は江戸患い)の食事は十分御馳走
>>295
おじいちゃん死亡フラグwwww
戦時中ってまだ地主と小作制度が生きてた頃だろ?
田舎に住んでた人がみんな食べ物に困らないってことはあり得ないわな
昭和20年は原爆の日や終戦記念日のたびに「あの日のような暑い夏の日です」とかアナウンスされるから誤解されるけど、実は冷夏で、9月には枕崎台風が来て大凶作だったんだよ
これには徴兵による労働力不足、貴重な労働力だった農耕馬の徴用、肥料不足も大きい
燃料不足で国内の流通も難しくなっていた
それにこのころから外地の農産物に依存していたけど、戦時中から輸送船を叩かれて食品の輸入が難しくなっていたし、終戦で完全になくなった
戦争前に都会のお金ある子らは良い物食べてるよ
親戚のばあちゃんも預かった金持ちの子(10代後半)に
肉食べさせてくれないと、かなり文句言われたそうだ
ばあちゃんの子供達(10歳以下)も同じ物食べてるのに
疎開というストレスもあったのかもしれないが
作文コンクールごときで祖父母のプライベートだから断りました(ドヤァなんて考える小学生がいるかよ
作文の題材にしてる時点である程度公開するのはOKだろうし孫がそれで賞とかとったらむしろ鼻が高いだろ
小学生の時、担任が戦時中の食べ物の参考として芋のつるを持ってきてくれたことがあった
煮付けだか炒めだか忘れたけど、すごく美味しかった
でも戦時中は調味料とかも貴重だっただろうし
こんなに美味しくは食べられなかったんだろうなと思った
旦那の母の実家が田舎の豪農で、戦時中でも「家族は」通常と同じように肉を食べ卵を食べ米も野菜もたっぷり食べていたが、他所にやる分までは無かった。って言ってた。
都会から着物やら時計やら掛け軸やら変なモン持ってきた人に、畑の端っこのクズ野菜を別けてやった事もあるが、着物やら時計やら持ってこられたって着るとこないし、飾っておくのも馬鹿みたいだし、なんでこんなモンしか持ってこないのだろうね、って困惑していたって。
気の毒だから、乞食と違って恵んでもらうのもプライドがあるだろうから受け取ったけど、もっと役に立つ物が欲しかったって。
都会にしかない配給の粉洗剤とか、そういうの。田舎までは来ない実用品。
都会の人は見栄もあるから高級品だと思い込んでるものを持ってくるんだけどさ。価値観というか、ニーズの違いというか、都会の高級品wは農家では使わないよって。
粉洗剤さえも都会でも無かったんだろうけど、着物はいらん、どこ着ていくんだ、って言ってたって。
ボケた婆さんが戦中の話をいろいろ言い出してその当時の状況が分かったけど
爺さんは陸軍将校で家にお付の人が何人もいて普通に肉も魚も食べていたみたいです
都会と田舎、金持ちと貧乏人の4種類でも違ったと思うよ。
田舎でも小作は常に貧しくって、都会から来た貧乏で更に腹減った子供が食べ物盗んでそれをリンチするのは、小作の子。少ない食料を取られるからガチのリンチよ。
豪農の家の畑って、人がいつも居るし取りにくくしてるんだってね。
都会の金持ちの子は、ご縁ある土地に疎開するのよ。お坊ちゃんが来るから肉出すんだよね。豪農の家族と同じものを出す。
それでも親も友人もいなくて寂しくて夜泣くのは気の毒だって言ってたって。
都会の貧乏人が一番飢えた思いをしたようだよ。腐った米食べて命繋いでたって。
※47
自分も思った
そういったコンクールって
何処の学校の何々さんって実名付きでしょ。
プライベートって断るならハナから作文に書くなよwww
総祖母の家が田舎の大地主で当時は食料とか戦時中にしてはかなりあったんだけど、親戚の疎開者受け入れたからいっつもお腹減るはめになったわーと祖母が言ってたなあ
もう少しちゃんと聞いておけばよかった
ご馳走食ってる裕福な家庭はそもそもド田舎に疎開しないからなあ。
ご馳走否定してる奴は都会に住んでるんだろうな
田舎住み35歳だが、子供の頃ご馳走(サーティワンやマック、珍しい食べ物)は手に入らなかった
昔はもっともっと格差が大きくて、田舎には田舎くさい食べ物しかなかったんだって
東京に当たり前にあるのもが、田舎では手に入らないんだよ
そりゃ洗剤自分たちも使わなきゃいけないから
交換には出さんわな
※47
コンクールと違って匿名だからじゃないの
※56
生活必需品とぜいたく品、困窮したときどっちを手放すかは考えればわかるよな
やっぱ田舎者ってアホなんすね~
※55
調味料もだけど、燃料も貴重だから基本は味なし・生煮えだと思っていい>戦時中の食べ物
戦後60年近く立ってる(!)小学生の時は祖父母のプライベート(!)に配慮してレポート(?)をコンクール(?)に
出すのは止めたのに戦後70年以上経ったこのSNS時代に見る人がみればすぐに個人を特定できる情報を
ネットで全世界に発信する投稿者(w)
サトイモの茎は関西では「ずいき」と呼んでスーパーなんかで普通に売られています。
あげなんかと煮びたしにしたかな。
昔は、食べると母乳が良く出るということで、赤ちゃん産みたての人はよく食わされました。
さつま芋の茎、今は調味料が良いのと物珍しさで結構口にあったりします。
最初は食べられても、それが続くとやっぱり嫌になるでしょう。
団子汁や雑炊もそんな感じでしょうかね。
祖父母に戦争体験を聞くなんて、今となってはもうできない宿題だよなあ
貴重な体験だよ
うちの父親は野沢へ学童疎開へ行ったが、故郷で食べたものを懐かしむように野沢菜を好んでいたのを思い出したよ。
祖父母とも都内出身で田舎がない家だから、血縁者は居ないが第二の故郷だったんだろうな。
※63
学童疎開だと別荘を持っているようなとても裕福ではない限り田舎がない家庭は行っているはずだよ。
当時近所の地主の長男(もう今は子供に譲っている)とかも一緒だったって話だしね。
還暦の年齢間違いの指摘と身バレの可能性に突っ込まれた作者が
話題そらしに必死なようです
おばあちゃんイケメンやな、いい女ってこのことか。
おじいちゃんも幼い&当時の感覚だと「女に助けられて恥ずかしい」とかならずによかった。
そして夫婦円満素晴らしい。
その担任に『大家さんと僕』読ませてやれw
(都会のお嬢さんだった大家さんが子供の頃戦時中ド田舎に疎開していて
いじめられないように方言を覚えようとしたりしていたら現地の子に
○ちゃんはそのままがいいのにと言われてすごく仲良くしてくれて
今でもつきあいがある程の親友になった…というエピソードが出てくる)
コメントの投稿
「トメ」「コトメ」などの意味がわからない場合は「2ch用語集」をご覧ください。