2020年08月08日 06:05
http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1595165768/
何を書いても構いませんので@生活板92
- 854 :名無しさん@おーぷん : 20/08/03(月)23:45:58 ID:fM.y1.L1
- 昔は学校給食の主食はパンしか出ていなかったらしい。
(親戚も、昔はパンばかりだったと言っていた気がする。)
子どもの食糧事情がアメリカの小麦のおかげで改善したが、
これはアメリカによる食糧戦略でもあったという(間違っていたらごめん)。
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- 今は逆にパンの方が激減しているという。ニュースでも報じられていたが。
食育が教育現場で普及したかららしい。
農林水産省の解説によると食育基本法第二十四条に食文化の継承政策がうたわれているという。
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/syokuiku/
しかし面白くないのは学校給食パンを作っていた業者。
業者の倒産が加速しているので給食でパン食を増やしてくれってことらしい。
そんな訴えをせずとも、そもそも世間ではパン食への支出が米より伸びているので
個人向けの商売を初めて生き残る道は模索出来ないのかって気もするが。
今後はどのように給食が変化するのだろうか。 - 855 :名無しさん@おーぷん : 20/08/04(火)00:24:09 ID:lv.sk.L1
- >>854
昔はパンばかりだったんだね、知らなかった。
給食のパンってパサパサしてて牛乳や汁物で流し込む感じで食べてたし美味しくなかった記憶。
同級生の親が栄養士かなんかで給食作ってたけど、
給食作りは料理とは全然違う、戦争だ!って言ってたのがとても印象に残ってるんだよね。
パンも美味しさとかは二の次でも大量生産すれば年単位で売り上げは安泰だろうから
学校給食って美味しい卸し先なんじゃないだろうか。
偏見だし言葉は悪いけど、大量生産で大味なパンばかり作ってきた会社が
今更個人向けに美味しいパンを一個単位でなんてできないんじゃない? - 856 :名無しさん@おーぷん : 20/08/04(火)00:29:10 ID:Lm.ir.L2
- >>854
私は昭和50年生まれ。
小学校の給食は、ご飯の時は米飯給食と呼ばれていて週に2回程だった。後はパン。
麺もあったけど2週に1回くらい。
わざわざ「米飯」とつけるのと、その頻度からまだ特別感あったんだろうな。
ちなまに、わかめご飯とぶどうパンが嫌いだった - 857 :名無しさん@おーぷん : 20/08/04(火)00:33:03 ID:wA.kz.L14
- 敗戦した日本にアメリカ産小麦を消費させるため、
学校給食ではごはん(米)ではなく、パンがメインだったんですよ。 - 870 :名無しさん@おーぷん : 20/08/04(火)11:05:44 ID:Or.hi.L1
- 小学校の給食場で非正規職員として働いてるけど、今はパンと米飯は半々くらいかな
「給食作りは戦争だ」はその通り
8時半に野菜洗いから始めて栄養士の無理なレシピで12時に間に合わないこともあっててんてこ舞いよ
今年度からエアコンも入ったし梅雨が長くて涼しかったから夏休み入りが遅くてもなんとか大丈夫だったけど、
早くなった夏休み明け、どうなることやら、、、
感染症予防で午後の洗い物(お湯)もマスク必須になってしまって暑いったらありゃしないよ
熱中症で倒れても労災使わせてもらえないからつらたん - 871 :名無しさん@おーぷん : 20/08/04(火)11:34:17 ID:7L.pg.L1
- >>870
え、労災にならないってどゆこと??
通勤中に転んでも労災なのに仕事真っ只中でしょうに
子どもたちの為に毎日ありがとう
無理しないでねー - 880 :名無しさん@おーぷん : 20/08/04(火)13:37:01 ID:Or.hi.L1
- >>871
通勤中の事故での怪我ならオッケーなの
給食場内での怪我や熱中症は、責任者(栄養士)が首を縦に振らないんだよね
若い人はともかく、年配の栄養士は調理員にも人権があるなんて、きっと思ってもないよ - 884 :名無しさん@おーぷん : 20/08/04(火)14:02:17 ID:aT.tp.L6
- >>870
給食センターは仕事がキツイ上に人間関係がえぐいらしいね。
栄養士の知人がメンタルやられて半年足らずで辞めたよ。
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コメント
昭和59年生まれ。
うちもご飯の日って週に二回設定があって、それ以外は食パンかコッペパンだった。
いちごジャム、リンゴジャム、ピーナツバター、マーガリンのどれかが付いてたなぁ。
給食懐かしいな。
食べたいな。
※1
私はアラサーですが、給食パンが食べたいって思う時あります。給食で卸すより面倒だと思いますが一般人からの需要はあると思うんですけどね…
うちの方は氷河期世代あたりから週二で米食給食とかになった
パン屋さんはしばらくの間は既得権でお米炊いてたらしい
こうやって嘘が広まっていくんだなって言う好例
こんな感じに戦時中は日本語禁止だったみたいなデマも広まったんだろうな
週2回ご飯で麺もあってあとはパンなら週2回だけじゃん
学校で給食のおばちゃんが作ってくれるタイプだったから
逆にパンのほうが圧倒的に少なかったな
昭和45年。
米食は一切無く、小6の時、初めて試験導入が始まり、卒業までに2~3回だけ経験。だから給食は常にコッペパン。硬い、パサパサの塩気も薄いコッペパン。
毎日業者から供給されており、当時は「食育=残さず食べる」だけで、どれだけ子供が嫌がろうが、教師も徹底的に高圧的態度で食べさせていた。一度、余程嫌い(今でいうアレルギーだったかも?)な食材が出て、全く食べれない女子が、6時間目迄に給食を食べれず、結果・18時まで教師が強制させ、両親が学校に乗り込んできて、担任含め喧嘩になったが、有耶無耶になったのを覚えている。
子供の人権何て、問われる事も無かったベビーブーム世代だった。
昔は大嫌いだったコッペパンも、今では「ほぼ市中に流通せず、二度と食べれない幻の味」化してて、たま~にテレビで話題になってるが、感慨も何も無い。
何せ、嫌な思い出しかない給食だった。
>>6
昭和の頃の給食は無理矢理食べさせるのが良い指導と先生は認識していた。アレルギーで事故が発覚してから先生の意識が変わったのは事実。今では食べられる分だけ入れる、食事量は自分で決めなさい、というのが主流だよ。
昭和55年生まれの横浜出身
小学生低学年の時ほぼパンでご飯は週1だった
4年生くらいの時に週2になった
>>米4
そもそも昭和の学校は週休二日じゃねえよ
※4
嘘じゃないよ。
昭和40年代に小学生だったけど中学卒業まで給食はぜんぶパンだった。
パンとミルク(脱脂粉乳)とおかず。その後脱脂粉乳はビンの牛乳になった。
私の地域の場合、給食で提供される米飯もパンも同じパン屋が作ってる。
※9
土曜日に給食あったっけ?
ご飯の日とパンの日が交互にあったと思う 地元のパン工場が作ってくれる美味しいパンだったな
土曜日は半ドンで給食なかったから週五回で合ってるよ
あと、ご飯の日は金沢で月二回、東京で週一回、麺はもっと少なかった
ほとんどパンって印象
ご飯は係がつけるから、途中で足りなくなったりやたら余ったりするんだよなあ
パンは個数が決まってるからそんなことなくてやりやすかった
>私は昭和50年生まれ。
小学校の給食は、ご飯の時は米飯給食と呼ばれていて週に2回程だった。後はパン。
私S51だけど米週5パン1くらいだったわ
それが揚げパンで本当嫌いだった。
地域によるのかねー
30年くらい前は週3でパンだった
たった週3だけど、当時は家庭でもパンってあまり食べなかったので、苺ジャムの甘さとおかずのギャップが辛かった
第二次世界大戦で日本が敗戦した時、日本は深刻な食糧不足になった
戦勝国のアメリカは人道的支援の名の下、小麦を供給をし
子供への配布が優先ということで、学校給食制度が始まった
実際は、日本の食習慣を変えさせ、アメリカ企業の市場にさせることが目的
なので、学校給食開始直後は、材料にアメリカの食習慣と同じものが出されるようになった
パン、牛乳、プロセスチーズ(アメリカ以外の国ではナチュラルチーズが主流)、スプーンなどなど
特にパンは「指導」の名の下に、各地でパンの作り方を教えて回る広報車が複数台作られたほど
ちなみに学校授業の内容もアメリカの意向が反映された
その当時のアメリカは、日本をアジアの工場にすることを望んでいたため
優秀な工員を作るシステムが、カリキュラムに組み込まれた。すなわち
・時間厳守(時間割を守る事に厳しかった)
・同じ事を繰り返す反復作業を嫌がらない(挨拶や行列、行進を何度も命じられた)
・上の命令には絶対服従(理不尽な校則でも遵守するよう教えられた)
などである。大半はアメリカの学校では組み込まれ無かったのに
※15
パンは隔週で1の間違い
半ドンだったし
おいしい給食ってドラマ好きだったんだけど、最終話は初めての米飯給食がテーマになってたな。市原隼人の食べっぷりが気持ちいい。
うちの地域はパンの日も米粉パンになっている。
だから実質週5でごはんだ。
昭和42年。横浜市。
米飯給食無しだったわ。
牛乳も低学年の間は瓶牛乳だった。(脱脂粉乳は出なかった)中学年で三角パックになって、6年の時に四角いブリックパックになったと思う。
46年生まれの妹の時は米飯給食があったそう。パサパサのコッペパンが嫌いだったので羨ましいなと思ったのを覚えてる。
先割れスプーンも使わされてた。あれも妹の時は途中から箸、スプーン、フォークになったとか。
中学から私立行ったら同じ神奈川県内でも「時々リッツが出た」とか聞いたりして、他の地域から来てる子達と「給食って地域で違うんだな」と言い合った。
そういえば3年生くらいまでストーブが石炭ストーブで、当番がバケツで石炭取りに行ってた記憶もあるなあ。これも「そんなことあるわけない、嘘だ!」とか言われちゃうのかなw
うちの市は昭和53年から、週2で米飯給食始めた。
ご飯は工場で1膳分の器で炊かれたヤツ。
お箸は割り箸禁止で、マイ箸を持参。
カレーの日は嬉しかったな。
赤飯もでたし、うなぎの真空パックがついててうな丼にしたり、納豆もパックで出た。
麺はよくでてたけど、回数決まってたのかな。うどんもミートソースもあった。
ソフト麺も揚げパンも食べたことないや。
パン
米飯、ときどき麦飯
1人前にパックされたうどん
ゴムみたいなスパティー
あと何があったかな
学校給食の歴史、とかで検索かければ一発なのに
各々が自分の記憶だけで、昔は~と言い出すからややこしいんだよ
地域差だってあるし。
※4
主食がパンのみだった時代は本当にある
あと、週3パンで、米もしくは麺で週2、って時代もあるんだわ
嘘とかデマでもない。人が間違ってると思ったらまず自分が確認しよう。
煮込みうどん・コッペパン・マーガリン・牛乳 みたいなちょっと頭おかしいんじゃないかという献立の日が普通にあった。
ああいうのは昭和の50~60年代くらいまでかと思ってたら今もあんまり変わってないとこもあるのね。
「変な給食」って本が出てる。
昭和45年生まれ。高学年くらいから米飯給食始まったけど、当時45人学級+担任分の米飯食管の運搬を給食用エレベーターも台車もない伝統木造校舎の2階の端までの運搬は2人がかりでも地獄としか言いようがなかった。
因みに当時はベシャベシャな炊き加減で皆あまり食べずに戻すので帰り道も楽では無い。
自分も昭和後期に小学生だったけど
最初はパンだけで、途中から米飯の日が登場するようになって
お米が好評で徐々に増えていったとおぼろげに記憶している
また、その時の給食で出るパンって美味しくなかったんだよなあ
安い材料で安く作ってたんだろうな
昭和39年生まれ。
給食=パンだった。
中学に入った頃からごはんもたまに出るようになった。
中一の終わりが月に1、2回→中三の頃に週1回に増えたかな。
給食用のパンを引き受けていたのは地元の製パン会社1社のみ。
その会社がごはんも届けてくれていた。
今は製パン部門は別のパン会社に吸収合併されて、給食業者に業態転換しているみたい。
流石に脱脂粉乳はギリギリ知らない世代だけど基本はパン食
絶対パンに合わないおかずだろうってときもパン
しかもおいしくないんだわ
途中から年に数回おひなさまとかの何かのイベントの日だけピラフとか味ご飯なんかの白飯じゃないご飯の日ができてた
今考えると美味しくはなかったと思うけどレア感が嬉しかったな
週5日中2回て十分だろ
住んでる場所によるだろ。 俺は昭和51だけど、
週3ご飯 週1パン 週1ソフト麺
こんな感じだったぞ。 下手したらもっとパン率低いわ。
秋休み(稲刈りの手伝い) なんてのもあった時代だから、
米は普通に余ってたぞ。
昭和39年生まれ。
小学1〜3年は東京世田谷区で
4年生からは東京23区お隣県。
どちらも、ほぼほぼパンで、たまにピラフなどのご飯。白ご飯は出たかなぁ。たま〜にソフト麺。
世田谷区では瓶牛乳だったけど、お隣県は紙パックだった。
瓶牛乳の瓶が重いしバランスとって教室に運ぶのが大変だったので、紙パックに感動した(笑)
違う県に住んでた同い年の知人は、最初まだ脱脂粉乳飲んでたって言ってたから地域差あるよね。
孫がいるけど、「よくお腹空かないなぁ」ってくらい寂しい内容のメニューの日がある。
栄養計算だけでみると合格なんだろうけどね。
うちの市は、シングル家庭は給食費は無料だった気がする。
予算的にギリギリなのかも。
地域と年代によるんじゃないの?
自分とこはご飯とパンが同じ比率ぐらい。
麺は食べた覚えがないから、出なかったのかもしれない。
親の世代はほぼパンだったと聞いた事はある。
昭和47、福岡県。
小学校の高学年でご飯が週2導入、それまでは全部パンだったよ。
公立の小中だと区市町村ごとに状況は変わるけど、
おおざっぱに「昔はパンで昭和後期にご飯導入」って感じだと思う。
地域によるんだね
自分より年下なのにパン給食多い人がいて驚いた
北関東50年生まれの記憶ではパンの日は週に2回くらいだったよ
ご飯は途中まで一人分ずつの入れ物で直接炊く方式(形が違う飯盒みたいな)だったから美味しかったけど
パンはパンで人気だったな
途中からご飯が大量に炊いたのを入れ物に盛り分けしたのに変わってからは特に
昭和46年生まれ。
正確にいくつからご飯が出たかは覚えてないけど、小学校中学年以上からだったと思う。
ご飯が出るようになってからは月二回くらいだったかな。喜ぶ子もいたけど、冷たかったから私は嫌だった。
食パンはそのままだったし、きゅうりは縦二つに切ったのがただ出て、塩も何もなし。トマトも皮付きのまま四分の一にして、塩も何もなしだった。
ちなみに東京、一応二十三区内の区立。
私立の姉に、そんな給食あるの?と言われたのが衝撃だったなぁ。
書き忘れ。
当時、古米・古々米・古古古米?とか言って、古くなったお米をいかに消費するか問題になってたから、その流れで給食にご飯が出るようになった覚えがある。
だからご飯がおいしくなくても仕方ないか、と諦めてた。
名古屋市郊外(西側)だけど、こないだ子供の給食を見て、旦那(49年の札幌育ち)が米が主流なんだね!!と驚いてた
彼のとこはパンが主流だったそうだ
私は53年(名古屋市郊外)で、米が多かった覚えがあるよ
アラフィフは週一回だけご飯で後はパン
アラ還暦は全部パン、ジャスト還暦は脱脂粉乳が経験あるらしい
首都圏の話w
そういえば牛乳のスタイルも違うよね
北海道(だけじゃないだろうけど)は三角パックで、自分とこは牛乳瓶
時々ミルメークという牛乳を味変出来る粉がついてきたという話に、三角パック育ちの旦那は悔しがってたよ
レス884読んで元Jリーグ監督が臨時の調理員で給食センターで働いてたことがあって
その時のことを人間関係のいい勉強になったと言ってたの思い出したわ
ちなみに昭和50年代前半生まれの愛知県民だが
パンとご飯は半々くらいでたまにソフト麺って感じだった
わかめご飯が大好きだったので
今でもコンビニでわかめご飯おにぎり見るとつい買ってしまうw
※37と同じ歳@関東
米飯給食は小5から月1~2回かな?その日は必ず箸を持参するよう通達された気がする。
揚げパンは争奪戦。
鯨の竜田揚げは月一くらいで出てたが、いつの間にか無くなった。
生トマト1/4と生キュウリ1/4はとても青臭くて、それが原因でキュウリが苦手になった。
3月のお持ち帰り給食(多分、給食費の残金調整)で配られた大きな蜜柑がとても美味しくて、
そこで伊予柑の存在を初めて知った。
S48年生まれたこ焼きの国 ラグビー場から割と近い地域
ほぼほぼコッペパンで月一くらいに米飯がテスト導入され始めてた頃だったなぁ
揚げパンソフト麺というものは存在しなくてミルメークも知らんが全般的に何食っても美味かった
調理室が校内にあったからってのも大きいと思う
そして調理師のおばちゃんたちは子供たちにとって神だったw
昭和50年南九州生まれ育ち。
ご飯が週1~2、あとはパン、2〜3週に1回麺。麺はソフト麺や、温食というおかずの缶で一緒に煮込まれたデロデロのラーメン。あと袋に入ったリンガーハットの皿うどんみたいなパリパリ麺も出て人気だった。
あと、土曜は牛乳給食と言うのがあって、4限後に全員で掃除して、その後牛乳だけ飲んで帰る。瓶でも三角でもなく、1リットルパックのミニ版200ml。
南九州ということで教室に暖房は一切なく、冬は掃除で換気されて寒い中、キンキンに冷えた牛乳が辛かった。
たまにみかんの生産量が過剰?だった年に、牛乳の代わりにみかんジュースが出ていて、その年はうれしかった。
※45に追加。
ミルメーク無し、揚げパンなし、だった。
ココアパンはあった。
小学4年生から孫が小学生になるまでの40年、同じ自治体に住んでるが
子どもや孫はオシャレな食器を使っているが、私の頃はアルミだったりプラスチックの、まるで犬の餌入れみたいな食器だったなぁ。
やっぱり「学校給食」だと皆のコメントが多いね。
昭和40年代はまだ「脱脂粉乳」が残っていて、ここにも誰かが書いていた通り「給食は残さず食べるもの」という雰囲気があったので、先生も「手本」を示すために「美味しい!」と言いながら「ひきつった笑顔」で脱脂粉乳のお替りをしていたっけ。
福岡市だったから、干ばつによる水不足で「給水制限」になった年は「脱脂粉乳を溶く水」が無くて「フルーツ牛乳」が出てきて皆が大喜びしたのを覚えている。
戦後生まれで昭和30年代におやきとお蕎麦の国の小学生だった私の母が、「脱脂粉乳おいしくて私は好きだった、クラスでも残す子なんていなかった。けど大人になってから東京に出てきて、給食の話になると皆があれは不味かったしか言わないでしょう。私の所はおいしかったって言いづらくてねぇ」と言うので脱脂粉乳も地域によってはおいしかったようです。
昭和45年生まれ両さんの地域
基本パンでたまにソフト麺や揚げパン
3歳下の妹は週に一回ご飯給食になった
3歳上の夫の郷里四国は小学校からご飯とパンの併用だった
結婚してから住んだ米どころはご飯を各自持ってくる方式だったらしい
小学校が自校給食で家の食事より美味しかったからおかわりは争奪戦だった
昭和37年生まれ。
給食にご飯が出たことは、小学校六年間で一度もなかった。常にコッペパン。
ごくたまにぶどうパン。
おかずが焼きそばやうどんのときでさえ、コッペパンがついてたよ。
あのころは給食は絶対に残してはいけないという鉄の掟があって、嫌いなものを先生に無理やり口に押しこまれて吐く子もよくいたなあ。
ご飯が週二回って給食は週5日なんだから、パンが一回多いだけじゃん。
それにパンって、いちいち盛り分けるご飯より、運びやすいし、楽だから、パンのが多いのかな?くらいに思ってた。
昭和61年北部九州。
ご飯とパンが交互で時々麺。
自校給食でかなり美味しい部類だったと思う。
残飯があると次回の量が減らされるので、大人気のカレーやシチューを満量もらうために皆普段からお残ししないように頑張っていた。
そういう意味では結構なお残し厳禁圧力はあった。(少な目によそってもらう・他の人に食べてもらうのは可)
S48年生まれ 静岡県中部。
月・水・金がご飯
火・木がパン
家ではほとんどパンが登場することが無かったので、パンの日はうれしかったなぁ
あと、給食センターのご飯は、一人前の米と水をアルミ容器に入れて炊き上げるタイプだったので小学生の頃は量が多くて食べきるのが大変だった。
給食のお残しは絶対に許されない時代の話。
昭和48年生まれ広島
小学校入学した当初はまだパン食のみ
1年生の半ばくらいから週1回の米飯給食がはじまった
給食でご飯が食べられるようになるってのは当時の校内では結構な大ニュースで、厳しかった担任も珍しくうれしそうだった
初回はわかめご飯だったのをよく覚えてる
主食の2大人気は卒業までずっと「わかめご飯」と「揚げパン」だった
※4
「戦時中は日本語禁止だったみたいなデマ」ってどこの国の話?
うちパンは週一だった
もうすぐ40歳なんで若いわけでもない
地域によりけりだな
昭和35年 新潟市
米飯なし パンばかり
食パン数枚って時期とコッペパンの時期があったがどちらが先でいつ頃替わったかは忘れた。
毎週1回(隔週だったかも)袋入りのうどんが出て「ソフトメン」と呼ばれていたな。
汁物に入れて食べるのだがそういう日も先割れスプーンだった。
入学時から給食のときは先割れスプーンだったから疑問に思わなかったのかもしれない。
鯨の竜田揚げは定番メニューの一つで、かたいと言ってきらう子供が多かったが、
日本の捕鯨が叩かれてるニュースを見たときに真っ先に心配になったメニューだった。
脱脂粉乳の話題も出ているが、低学年はアルミ?のお椀に冷めかけた脱脂粉乳が注がれていた。
遅くとも6年生のときはビン入り牛乳だったのは間違いない。
男子の一人が間違って?隣の席の女子の牛乳に口をつけて、ひやかされた女子が泣き出したという騒ぎがあったから。
(少6にもなって何やってたんだうちのクラスは・・・)
中学以降は弁当だったので米飯給食は一度もない。
いつ頃切り替わったんだろう。
今になって考えたら米どころ新潟だったんだから率先して切り替えるくらいしてたかもしれない。
30年くらい前は給食のおばちゃんもれっきとした地方公務員で、自治体によっては勤続30年で部長級の給与が出てたはず。
昭和最後の年生まれ
パンとご飯と麺が順繰りに来てたなぁ
パンは食パン、ぶどうパン、くるみパン、コッペパン、クロワッサンって感じだったし、ご飯も白飯、炊き込みご飯、混ぜご飯、麺はソフト麺、パスタ、ラーメン、うどんって感じで飽きないようになってた
中学からは給食じゃなくてランチルームでランチか仕出し弁当みたいなやつ頼んでたな
どっちも公立
昭和35年。主としてパン。たまにソフト麺。このパンが不味かった。味も香りも全くなく、マーガリンの塩味で無理やり食べていた。
年1回、運動会の時に特別な給食が出るのだけれど、その時のパンだけは香りが立ってて旨かった。多分、普段のパンは酵母やミルク、油脂等の量が少なくて、小麦も質が悪かったのだろうと、今は思う。結局、予算だよね。
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